高島市は、琵琶湖の北西部に位置し、古くから京都・奈良の都と北陸を結ぶ交通の要衝として栄えました。中でも陸上交通は比叡・比良山麓を湖畔に沿って走る西近江路や、若狭街道(鯖街道)が主となり、これらのが移動と大津方面への湖上交通の拠点である港町や宿場町として栄えました。豊かな自然に支えられた山村から農村・里山・漁村など懐かしい風景を数多く残しています。
清水山城は現高島市新旭町熊野本・安井川に所在します。清水山城は戦国時代のお城を見るうえで大切な遺跡として、清水山城遺跡、清水山遺跡(清水寺・屋敷地)、本堂谷遺跡(大宝寺・屋敷地)の範囲が、清水山城館跡(しみずやまじょうかんあと)として平成16年2月27日に国史跡に指定されました。西佐々木一族の惣領佐々木越中氏の居城と伝えられています。清水山城の城下は、推定される大手道が接続する西近江路に沿って南北に広がっていたと考えられています。
※史跡地内には、トイレはありませんので、新旭森林スポーツ公園内の施設等、他の公共施設をご利用ください。
■参考情報/「清水山城楽クラブ」facebook https://www.facebook.com/groups/296532314118130/
田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端部に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺(うえでら)区西側の山間部にその遺構を残しています。主郭があったと推定される曲輪の標高は220m、平地との比高差はわずか60mで同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置していますが、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことがうかがえます。元亀元年(1570年)4月、織田信長は越前の朝倉義景を討つため「田中の城」に逗留したと「信長公記」に記されており、この軍勢には後の豊臣秀吉、徳川家康も参加していました。その後、浅井長政の勢力下に置かれた田中城は元亀4年(1573年)に信長の手によって攻略され、明智光秀の支配を受けて終焉を迎えますが、田中氏の流れをくむ田中吉政は、秀吉、家康に相次いで仕え、三河国岡崎城主、筑後国柳川城主として城下町の建設・整備に手腕を発揮したことで現在も称えられています。
※山城入口には獣害対策用の柵があります。施錠無しの為手動で開閉可能ですが、開門後は忘れずに閉門してください。
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JR近江高島駅の東南約150mにあります。石垣に囲まれた小高い森が、大溝城の天守跡です。大溝城は新荘城(現新旭町)にいた織田信澄(のぶすみ)が、安土・桃山時代に築城したもので、商家や寺院などを移して城下町を造りました。本丸の南東の乙女ヶ池は琵琶湖の内湖で、古地図によると、大溝城は城堀を内堀とし、乙女ヶ池を外堀とする水城であり、「鴻湖(こうこ)城」とも呼ばれました。江戸時代に分部光信が城主になると、この地を陣屋として12代光謙(みつのり)の明治維新までその支配が続きました。
江戸時代(1619年)、伊勢・上野城から移封されて二万石で大溝に着任した分部光信が、城が荒廃していたので城下町の建設に力を注ぎました。通りの中央に川を通すなど、市街戦に対する遠見遮断が考えられています。また、城の西北に陣屋が構えられ、現在城下町の名残りをとどめる陣屋の惣門や武家屋敷の一部、水路などがあり、長刀町、江戸屋町、伊勢町、船入町、紺屋町、職人町、蝋燭町などの町名があります。また、湖西随一の曳山祭(大溝祭)も残っています。
関ヶ原の戦い以後、徳川幕府の譜代大名格の待遇を受けた朽木氏が領地内に設けた館舎で、当時は9万3000平方メートルの敷地に本丸・二の丸・三の丸をはじめ、御殿・侍所・剣術道場・馬場・倉庫など戦陣拠点としての諸施設が建っていたといわれています。 残念ながら、明治維新とともにすべての建物が取り壊され、現在は、堀・土居・石垣の一部と2ヵ所の井戸がわずかに残っているだけです。しかし、近年になって、植物・樹木が植えられ、わら葺きの民家が移築されて史跡公園となっています。
朽木(くつき)の市場地区は鎌倉時代から続く陣屋町でもあります。街道が直角にカーブしているのが特徴で、今では小浜と京都を結ぶ「鯖街道」の宿場町として有名です。
鎌倉時代には荘園が置かれ、朽木氏による支配下にありました。朽木氏は関ヶ原の合戦にあたって徳川方についたこともあってこの谷筋の支配を強化していきました。1万石にも満たない旗本でありましたが江戸への参勤交代も行われたといいます。地図を見るとこの地区の独自性がわかります。 朽木の中心集落・市場には古くから町が開けていたらしい色が感じられ、平入りの町家建築や一部には茅葺の旧家も見られます。町並は一本道に沿い連なり、幾度か直角に折れ曲ってもいるため宿場町の様相ではありますが、ここに宿駅が設けられたということは明確には記録されていません。
興聖寺は、曹洞宗開祖道元禅師が都から越前へ向かう際、朽木庄一時隠居中の佐々木信綱に一寺建立を勧め、寛元元年(1243)創建されました。境内からは安曇川や上山などの広大で雄大な景色が眺められます。朽木は、享禄元年(1528)に12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避けて滞在した地といわれており、13代将軍義輝も戦乱が続く京から逃れ6年余り滞在し、室町行政が行われ一万人の勤め人が居住しました。閑静な境内には本殿のほか、庫裏(くり)や鐘楼などが立ち並びます。本尊の木造釈迦如来坐像は、伝教大師の遺作と称される平安時代の名作であり、檜の寄木造りで、その優美さと尊厳さをそなえた仏像は国の重要文化財に指定されています。
<旧秀隣寺庭園(別名:足利庭園)>
興聖寺の境内にあり、昭和10年に国の名勝指定を受けている庭園です。もともと、16世紀の半ば、相次ぐ武将たちの反乱に追われた室町幕府の第12代将軍足利義晴、そして第13代義輝が、朽木氏を頼って数年間滞在した居館の庭園です。秀隣寺は、のちに他の地に移され、江戸時代に朽木氏の菩提寺である輿聖寺がこの地に移されて、現在にいたっています。朽木一族を始め…
5世紀前半に築造された直径80m・高さ7mの、平地に築かれたものとしては県下最大級の円墳です。忠実ではありませんが、一説に、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)で没した塩焼王の墳墓とする伝承が残っています。この王塚古墳は、高島市における古墳時代の解明に重要な意義を持ち、近江の古代史の研究に欠くことの出来ない遺跡として、昭和62年3月30日に滋賀県文化財史跡に指定されました。
鴨川右岸に広がる沖積地に位置する古墳です。古墳時代後期のもので、湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳です。 現在は前方部の墳丘がありませんが、周辺の地形などから、全長45m・後円部の直径25m・高さ5mほどの周濠をめぐらせた前方後円墳であったと考えられています。 明治時代に、後円部から横穴式石室と刳抜(くりぬ)き式家形(いえかた)石棺が掘り出されました。また、石棺内から、金銅冠(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾・鏡・玉類・環頭大刀(かんとうたち)・鹿装大刀(ろくそうたち)・刀子(とうす)・鉄斧(てっぷ)などの象豪華絢爛な副葬品が発見されました。のちに、これらの副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることがわかり、この古墳の被葬者や場所と大陸との交流関連について、様々な興味と話題を呼んでいます。
遺跡は、安曇川によって形成された朽木谷の左岸にある河岸段丘上の平坦地にあり、東西約50m南北約160m程度の広さがあります。後一条天皇の皇子が藤原一族とともに都より隠棲地を求めた説と、朽木の領主の姫が病気になり、その姫を住まわせる屋敷をつくられたとする説があり、二つの伝承がどの程度の信憑性をもつかわかりませんが、不幸な皇子と姫のための屋敷として建てられたという点では共通しています。きわめて短期間に廃絶したと考えられていますが、池の構造、あるいは池汀の玉石の裏ごめの砂層から、中国時代の龍泉窯糸の青磁の破片が出土したことから、県下で最古の庭園として貴重なものです。
田中神社には、鎌倉時代の石造品が6基ほどあり、文化財として大切にされています。また、毎年5月4日には、勇壮な流鏑馬神事で有名な「田中祭」が催され、鉦や太鼓の音も賑やかに氏子が参道を練り歩き、その年の豊作を祈ります。
開基は明らかではありませんが、平安時代末期に現在の海津上尾山(かいづかみおやま)の地に勧請したのが始まりといわれています。徳川将軍家や加賀藩主前田氏の保護を受けて栄えました。折り重なる老松や杉の陰に、天神社を中心として大小10棟の社が、荘厳なたたずまいを見せています。祭神は、本殿が菅原道真、大鍬(おおくわ)神社が大己貴命(おおなむちのみこと)、小野神社が天押足彦命(あまのおしたちひこのみこと)です。そのほかに、貴船社・愛后(あたご)社・恵比須社など数社の社殿が立ち並んでいます。社宝として、平安時代末期の法華経8巻に開経・結経を合わせた10巻や、徳川3代将軍家光の朱印状、狩野山楽筆の板絵著色絵馬など、優れた文化財が数多く保存されています。これらは、10月10日に一般公開されます。また、毎年4月29日には「海津力士祭」が行われます。
境内を覆う新緑と、鮮やかな紅葉には定評があります。創建は13世紀前半と古く、南北朝時代から室町時代にかけては、近江の国主、佐々木一族の絶大な崇敬を受けました。佐々木源氏は、一族の守り神として崇敬していた大荒比古神社(おおあらひこじんじゃ)において、出陣の際には神前に戦勝を祈り、凱旋しては神前に戦勝を感謝していました。この時、12本の的と12頭の流鏑馬を神前に奉納したのが、今日では毎年5月4日に行われる「七川祭」の始まりであると言われています。この「七川祭」は、昭和34年に滋賀県無形民俗文化財に指定された由緒ある民俗芸能です。
邇々杵神社(ににぎじんじゃ)は宮前坊の氏神で、邇々杵尊(ににぎのみこと)が祭神です。木造の二重多宝塔は、江戸末期の建立で方3間の二重の塔で、朽木神宮寺宝塔として朽木神宮寺に属していましたが、邇々杵神社の奥の院の塔とも考えられています。どっしりとした安定感がある塔で、宝塔内には木造釈迦如来像と23躯の薬師如来像が安置され、古来から信仰を集めています。平安時代の作風を残す鎌倉時代初期の仏像です。5月10日に行われる例祭では、御輿渡御(みこしとぎょ)が有名です。
湖中に朱塗りの大鳥居があり、国道161号をはさんで社殿が鎮座します。「白鬚さん」(しらひげさん)、「明神さん」の名で広く親しまれ、また近江の厳島(いつくしま)とも呼ばれる近江最古の大社です。社名のとおり、延命長寿・長生きの神様として知られ、また、縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通安全・航海安全など、人の営みごと、業ごとすべての「導きの神」でもあります。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)です。創建以来2000余年の歴史を誇り、現在の社殿は豊臣秀吉の遺命によって、その子秀頼が片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として造営したものです。本殿は正方形の明解な平面で、明治時代の拝殿再建の際、本殿に接続させたために現在のような複雑な屋根形式になっています。また、数え年2歳の子に名前を授け、その子の無事成育を祈る「なるこまいり」の神事は有名で、この神事の行われる9月5日・6日の例大祭には、近郷の人はもとより京阪神をはじめ全国から参拝者が訪れます。境内には、明星派の歌人である与謝野鉄幹・晶子夫婦が神社を訪れた際に詠んだ歌を刻んだ歌碑があります。また、西近江七福神の寿老神が祀られています。
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興福寺官務牒疏にある古刹で、観音堂の素晴らしさは遠く都の人々の口の端にのぼるほどであったといわれていましたが、残念ながら焼失し、現在の観音堂は江戸時代、僧覚仁によって建てられたものと言われています。千手十一面観世音が本尊として祀られています。昔、周囲の谷川に村人を困らせる大蛇が棲んでおり、酒を呑ませて退治をしたことから、この地を酒波(さなみ)と呼ぶようになったといいます。寺名も同じ由来です。参道の長い山裾のお寺で、春になるとエドヒガン桜やソメイヨシノが見事に咲きみだれ、参拝する人々の目を和ませてくれます。
白蓮山と号し、本尊は十一面観世音菩薩です。草創については諸伝がありますが、縁起によると、三尾山にあった楠の霊木が継体天皇のとき、洪水のため音羽の里へ流れ出て臥木となりました。年を経て、聖武天皇のとき、沙弥道徳、比丘道明が天照大神、春日明神の守護によって十一面観音の尊形を成就したと言われています。堂はもとは嶽山頂上近くにありましたが、参詣者の便のため現地に造建されたとも言われています。山頂近くの旧地には石窟があり、石仏が安置されています。山麓の大炊神社に隣接しており、日常参詣のための御影堂があります。
白鬚浜付近で国道161号線を旧西近江路に折れ北進すると、草深い山中の墓地に、花崗岩石で作られた高さ1.6mの阿弥陀如来像群が見られます。この仏像群は、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちょうど対岸にあたる高島市鵜川(うかわ)に建立したものです。東を向いて静かに並んで座っている石仏は、大きさも少しずつ異なり、慈愛に満ちた顔・あどけない顔・ユーモラスな顔など、姿もそれぞれ異なっています。現在、鵜川に33躰、大津市坂本の慈眼堂に13躰が、それぞれ安置されており、残り2躰は行方知れずになっています。
高島市内にも七福神があります。お正月もいいですが、おすすめは特に春先、それぞれの社寺の境内を彩る梅や桜のお花見もかねてのんびりと巡られてみてはいかがですか。西近江七福神めぐり専用色紙もあります。
※社寺によっては、不在にされていることもありますので御朱印の必要な方は事前に各社寺までご連絡ください。
①大崎寺(おおさきじ)(毘沙門天/マキノ町海津)
②川裾宮 唐崎神社(かわすそみや からさきじんじゃ)(恵比須神/マキノ町知内)
③西江寺(せいごうじ)(弁財天/今津町藺生(ゆう))
④阿志都弥神社・行過天満宮(あしづみじんじゃ ゆきすぎてんまんぐう)(福禄寿/今津町弘川)
⑤正傳寺(しょうでんじ)(大黒天/新旭町旭)
⑥玉泉寺(ぎょくせんじ)(布袋尊/安曇川町田中)
⑦白鬚神社(しらひげじんじゃ)(寿老神/高島市鵜川)
水尾神社(みおじんじゃ)の祭神は垂仁天皇で、古代この地に栄えた豪族水尾君一族の祖とされています。近くには、鴨稲荷山古墳や拝戸の古墳群もあり、このあたりが古代文化の一つの中心圏をなしていたことが知られます。統治者、政治家、経営者など人の長たるべき人の神、更には安産、子授け、厄除けの神として崇敬されています。
檜並木の参道の奥にある通称"王塚"の中にあります。 面積は約2840平方メートル。2段重ねの円墳で、周囲の3基の古墳より格段に規模が大きく、古墳時代中期のものと考えられています。被葬者は、継体(けいたい)天皇の父である彦主人王と伝えられています。安曇川町は、継体天皇にまつわる伝承地が多いことでも知られています。
彦主人王のお妃、振姫が出産の際もたれたと伝えられています。この石をなで自分のお腹をさすって安産を願う慣わしが残っています。
継体天皇は高島の地に誕生され、母・振姫がお産のあと天皇の「へその緒」を埋めたのが、この胞衣塚だと伝えられています。胞衣(えな)とは胎盤のことのようです。
この塚は、直径約11.5m、高さ約2.5mの円墳で、6世紀の築造と推定されています。
式内社である三重生神社(みおうじんじゃ)には、継体天皇の両親である彦主人王と振姫の二神が、つつましく寄り添うように祀られています。毎年春に「三重生まつり(牛まつり)」と呼ばれる祭礼があり、今日では5月の第3日曜に古き良き時代を思わせる神事が厳粛に執り行われます。
安閑神社(あんかんじんじゃ)の境内には、俗に「神代文字」と伝えられている1基の碑(高さ1m、幅1.4m)が建っており、表面には絵とも文字とも判別しにくい陰刻があります。旧産所村(現、安曇川町田中馬場地区)にあった三尾神社(現、田中神社摂社安田社)に伝えられた「秀真伝」(ホツマツタエ)の謎の超古代史の記号文字に類似した点があるように思われ、不可解な町の歴史がいにしえのロマンヘいざないます。
近江聖人といわれた日本陽明(ようめい)学の祖、中江藤樹(なかえとうじゅ)(1608-1648)の住居跡・講堂跡で、国の史跡に指定されています。 この建物は、藤樹の自宅が狭くなったために彼が没する半年前の正保5年(1648年)に、門弟や村人たちの協力によって完成したものです。明治時代に、現在のように再建されています。内部には、藤樹直筆の「致良知(ちりょうち)」の書を始め、遺品・遺物が数多く展示されています。また、敷地内には名前の由来にもなった藤樹遺愛の藤の老木があります。 中江藤樹は、生涯を通して師につくことがなく、ひたすら独学で、一貫して人間の道を探求し続けました。37歳で陽明学に出会い、致良知に徹すれば心事一元になることを悟り日本陽明学の始祖といわれました。彼の学統には、熊沢蕃山(くまざわばんざん)、渕岡山等がいます。また、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)、吉田松陰(よしだしょういん)など異才もいます。武士が人の上にあって世を支配した江戸時代に、人間として生きるべき真実の道を求めて実践したのが近江聖人中江藤樹先生です。すべてを包み込む大きな心。人間への深い愛と畏敬。藤樹先生が熱い思…
藤樹神社は、近江聖人・中江藤樹(おうみせいじん・なかえとうじゅ)ゆかりの神社として有名です。大正11年(1922年)に中江藤樹を敬慕する人々の協力によって建てられました。建立にあたっては、皇室ご下賜の木曽檜が使われました。入り口の社標は、杉浦重剛先生、第一鳥居の額は東郷平八郎によって書かれたものです。また、お蔵には前皇后陛下の学生時代のご作文「我が敬慕する人物中江藤樹」をはじめ、藤樹先生の真筆、藤樹先生御絵伝などが社宝として納められています。
「われは湖(うみ)の子 さすらいの...」 「今日は今津か長浜か」
多感な青春と周航ロマンを情緒豊かに歌い上げる「琵琶湖周航の歌」は、広く国民に愛唱される名曲となっています。歌が誕生したのは、滋賀県高島市今津町です。この歌は、大正6年、京都にある旧制の第三高等学校水上部(現在の京都大学ボート部)の学生がボートで琵琶湖周航した途中に作ったものです。資料館では、作詞者・原曲者に関する資料など充実した資料の展示のほか、多くの歌手や演奏家による琵琶湖周航の歌が聴ける試聴コーナーもあります。
西国三十三か所第30番札所・竹生島宝厳寺(ほうごんじ)への玄関口として賑わいます。竹生島行きの定期観光船が運航し、往復航路と、対岸の長浜港までの横断航路があります。
詳細・最新情報は琵琶湖汽船㈱公式サイトをご確認ください。
竹生島クルーズ▶https://www.biwakokisen.co.jp/cruise/chikubu/
詳細ダイヤ▶https://www.biwakokisen.co.jp/cruise/chikubu/price_time/
旧今津村の中心街で、代官屋敷や御蔵所、問屋、旅籠等が建ち並んでいました。全盛期には問屋が10数軒、旅籠が8軒ほどあったようです。
建築設計をはじめ数々の功績を残した米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)。元々は銀行として設計された当資料館では、ヴォーリズ建築のことなら何でも分かるよう資料が展示され、大人から子供まで学習することができます。
毎年4月第3日曜日に、酒波(さなみ)の日置神社(ひおきじんじゃ)(上の宮)、北仰(きとげ)の津野神社(つのじんじゃ)(下の宮)、両社の祭礼として盛大に行われます。囃子(はやし)やサンヤレなど、古くからの祭りの様式を現代に伝える民俗資料としての評価も高く、昭和63年には県の無形民俗文化財にも選ばれました。中心は、日置神社と津野神社で、大幟(おおのぼり)と神輿が輪番で出されます。当日、両神社で式典が済むと、中間地点にある平ヶ崎馬場(へがさきばんば)(お旅所)へそれぞれの行列が向かいます。高さ約20mの2本の大幟、子どもが持つ約50本の小幟が待ち構えるなか、馬場へ神輿が到着し、馬場では引き続き、神輿渡御(みこしとぎょ)、サンヤレ踊りの順で、馬場奥の祭礼場へと進みます。神輿渡御のあと、各集落の氏子代表が敬虔な祈りを捧げる儀式、流鏑馬(やぶさめ)などが行われます。お囃子にある「サンヤレ」とは、古代日本人の宗教の習俗で、人々はひたすら身辺に生ずる悪霊をおそれ、自らの悪行を心にとがめ、その結果起こる罰を逃れようとして、祖先の善霊に助けを求めて祈ったといわれます。「サンヤレ」の語源については、「サン」…
毎年4月29日に行われる海津天神社の春の例大祭です。神社には2基の神輿が祀られ、宮司が祝詞をとなえます。色鮮やかな化粧まわしを着けた若衆に担がれ、2基の神輿は海津天神社を出発。海津と西浜の二手に分かれて、「ヨーイヤサージャー」のかけ声を掛け合い、神輿を上下左右に激しく揺さぶり蛇行しながら海津、西浜地区を練り歩きます。二手に分かれたところで落ち合いしばしの休憩の後、夜の部が始まり、神輿を担いだ若衆はもう一度同じコースを練り歩きます。2基の神輿は再び落ち合い、神社に還御し、祭りは最高潮の盛り上がりをみせます。境内では、松明の薄明かりの中、神輿の激しい「おねり」が行われます。
この祭りは、海津港が北陸から京都への輸送基地として賑わった300年前から始まったと言われ、その当時、回船問屋で働く若者達が力士をまねて化粧まわしを着け、美しさを競ったのが始まりといわれています。
日吉神社の春の例祭で、湖西地方随一の曳山祭です。現在は、5月3日が宵宮祭、4日が本祭、5日が後宴祭です。この祭礼には、勝野の5地区から、湊(みなと)・巴(ともえ)・宝(たから)・勇(いさみ)・龍(りょう)の5基の曳山が出ます。各組の山は、それぞれ大きさが異なっていますが、天井はみな格天井(ごうてんじょう)で、格間(ごうま)に漆箔(しっぱく)、格椽(ごうてん)に黒塗り、面は朱塗りのものです。これらの曳山には、それぞれ豪華な天幕と胴幕、見送り幕が飾られてあり、各山車とも趣向が疑らされています。特に、巴組の山は、四隅の柱を上下することができ、屋根全体が上下できる仕組みになっている点で大変珍しく、最も古いものとされます。各曳山は、古式にのっとって太鼓・鉦(かね)の囃子(はやし)で町内を巡ります。5基の曳山が並んで町内を巡行しますが、その順番は廻り番とされています。1番山を花山といい、太鼓・鉦鈷(せいこ)の囃子を奏でて曳き廻ります。
例年5月3日(宵宮)午前11時頃から御湯奉納があり、午後7時より二百灯が奉納されて宵宮祭が執行されます。宵宮で各曳山に提灯をつけ曳き廻る光景は、もっとも豪華で…
毎年5月4日に大荒比古神社で行われる、湖西随一の馬祭りです。この日に奉納される「奴振り」は昭和33年11月7日に滋賀県選択無形民俗文化財として指定を受けました。
「出立ちの祝杯」があげられ、その後練りが始められます。祭りの見どころは12基の的練り、そして聞きどころは2基の樽振りの「警句」です。「的練り」は、奴姿の若者が的を片手でもって練り歩き、「樽振り」は、酒樽を肩に担いで踊ります。その2つを含め「奴振り」といい、樽振りの「警句」はほとんどがアドリブで、毎年聞く者の笑いを誘っています。 もう一つの見どころは、馬場を勢いよく駆け上がり的を射抜く「流鏑馬」です。神社境内の参道を挟んで設けられた、2列の観客席のあいだを疾駆する姿は圧巻です。
高島市の観光パンフレットをPDF形式でご覧いただけます。
高島市の社寺仏閣や史跡、歴史などをご紹介した冊子です。(全20頁)
発行日:2019年10月戦う城(軍事拠点)から、政治の拠点としての変遷を辿り、中世から近世の歴史を体験してみませんか。
発行日:2023年08月田中城は若かりし頃の明智光秀が籠城した記述があり、明智光秀とのかかわりが注目されます。
発行日:2023年08月信長は途中、朽木領主・朽木元綱の手引きで、朽木城(後の朽木陣屋)に宿をとったと伝えられています。
「信長の朽木越え」として知られる現地をゆっくり散策してみましょう。