織田信長の朝倉攻め~信長の命運を分けた!10日間の物語~

織田信長の朝倉攻め~信長の命運を分けた!10日間の物語~

織田信長、最大の危機である金ヶ崎の退き口。物語の舞台は、対立関係にあった朝倉氏攻略戦で、1570年4月20日から4月30日、この僅か10日の間に織田信長の命運をわける劇的な展開が繰り広げられます。
時は、永禄十三年(1570年)4月20日、織田信長は対立関係にあった越前朝倉氏を攻略するため、京都を出発します。3万人の軍勢を率いて、坂本を経て和邇(大津市)に陣取り、21日に田中の城(高島市)に宿泊します。22日には熊川(若狭町)の松宮玄蕃の城に泊まり、翌23日(天正元年)には佐柿(美浜町)の粟屋越中の城に逗留し、朝倉氏の前線基地である敦賀への進軍の準備を整えます。
そして、4月25日には敦賀に出陣して手筒山城を落とし、翌26日には金ヶ崎城を攻略します。いよいよ朝倉氏の本拠地に向けて軍を進めようとする中、妹婿である浅井長政が離反したという一報が届きます。当初、虚報であると織田信長は退けますが、次々と同じ急報がもたらせる中、形勢不利と判断した織田信長は撤退を決意します。いわゆる金ヶ崎の退き口です。
この撤退戦について、『信長公記』には、「4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ」とだけ記されています。朝倉攻めにおける往路は、細かく記されていますが、織田信長、最大の危機である撤退戦は、1文しか記載がありません。この4月26日から4月30日までの5日間、どのような動きがあったのでしょうか。それを知る一つとして『長谷川家先祖書』があります。
この文書によると、まず、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が殿をつとめたいと申し出、許可されたことが記されています。その後、織田信長は敦賀を退去し、28日には今津町保坂に到着し、進路を南にとり朽木街道を進みます。この時、朽木の領主であった朽木元綱は信長を迎え入れ、朽木市場の下市にあった円満堂で接待します。接待役は、長谷川惣兵衛茂元で、お茶とお菓子をさしあげ、そのお礼に織田信長より、鹿革製のたちつけ(袴)と銀製の箸をいただいたとされています。朽木で休息をとった織田信長は、翌29日に葛川を通って無事に京都に到着する様子が詳しく記されています。
『信長公記』に記された1文の中には、織田信長が保坂の分岐点で朽木越えに命運を懸けたこと、それに応え信長の窮地を助けた朽木元綱の動向など数々のドラマが盛り込まれています。
たった10日間の間に起こった劇的で壮大な物語。『信長公記』と『長谷川家先祖書』から、この物語の足跡を辿ることで、織田信長の心境に思いを馳せる旅に出かけてみませんか。

1日目

約50分

田中城

  • 田中城
  • 所要時間約90分

    佐々木田中氏の居城とされています。標高約221mの主郭からは、安曇川や鴨川によって形成された平野や琵琶湖を一望することができます。『信長公記』にみえる「田中の城」に推定されています。元亀元年(1570年)の朝倉攻めのため、泊まったとされています。金ヶ崎の退き口の後は、浅井・朝倉に味方したとされ、元亀3年(1572年)、信長が志賀に出陣し、浅井・朝倉軍を木戸・田中の城に追い込むとあります。元亀4年(1573年)には、田中城を攻めたと記されています。
    その後、明智光秀が支配することになります。諸説ありますが、『米田文書』には、永禄9年(1566年)に若かりし頃の明智光秀が籠城していたとあり、明智光秀と深い関係があったことがうかがえます。

  • 住所 滋賀県高島市安曇川町田中
  • 電話番号 0740-33-7101(びわ湖高島観光協会)

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約40分

熊川城

  • 熊川城
  • 所要時間約40分

    熊川城は、近江国と若狭国の国境に近く、九里半街道(若狭街道・鯖街道)を眼下に見渡せる標高約185mの好所に位置しています。沼田氏によって、築かれたと考えられています。熊川城主である沼田光兼の娘の麝香は、細川藤孝に嫁いでおり、細川氏と強いつながりをもっていました。しかし、沼田氏は、永禄12年(1569年)に松宮玄蕃に攻められ、近江国に退いたといわれています。それ以降、細川藤孝の家臣となったとされています。織田信長の朝倉攻めにおいて、『信長公記』では、「廿二日若州熊河、松宮玄蕃が所に御陣泊」と記載されています。

  • 住所 福井県三方上中郡若狭町熊川
  • 電話番号

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約30分

佐柿国吉城

  • 佐柿国吉城
  • 所要時間約40分

    国吉城は、若狭国と越前国(敦賀)の国境を守る山城でした。標高約200mに位置し、若狭国守護大名武田氏の重臣である粟屋越中守勝久が、弘治2年(1556年)に古城を利用して築いたとされています。国吉城は、永禄6年(1563年)に朝倉氏の侵攻を防いだ後、朝倉氏が滅亡する天正元年(1573年)まで、ほぼ毎年、侵攻してくる朝倉勢を撃退し、一度も落城しなかった不落の城として伝えられています。『信長公記』では、「廿三日佐柿、粟屋越中が所に至り御着陣。翌日御逗留」と記載されています。

  • 住所 福井県三方郡美浜町
  • 電話番号

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約20分

金ヶ崎城跡・金﨑宮

  • 金ヶ崎城跡・金﨑宮
  • 所要時間約30分

    金ヶ崎城は、標高約90mの天筒山から北西に延びる尾根上に築かれました。朝倉氏の前線基地と考えられており、郡司の朝倉景恒が守っていました。織田信長は、4月25日に天筒山城を陥落させ、翌26日には金ヶ崎城を陥落させています。

  • 住所 福井県敦賀市金ヶ崎町
  • 電話番号

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約6分

天筒山城

  • 天筒山城
  • 所要時間約60分

    天筒山城は、金ヶ崎城の南に位置する手筒山に築かれた山城で、金ヶ崎城の支城として重要な役割を果たしていました。城は、金ヶ崎城よりも堅牢とみられ、金ヶ崎城と一体となって、本来の防御機能が発揮できると考えられています。標高は、約170mで、敦賀湾や旧北陸道、金ヶ崎城を見渡すことができます。

  • 住所 福井県敦賀市泉
  • 電話番号

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2日目

高島市内宿泊施設

宿泊スポット

保坂の石道標

  • 保坂の石道標
  • 所要時間約40分

    金ヶ崎の退き口において、織田信長が退却時に通ったと考えられる「若狭街道」の分岐点。当該地には、安永4年(1775年)に建立された道標があります。この道標には、「右 京道」、「左 志ゆんれいみち 今津海道」とあります。ここから、右に向かうと朽木へ、左に向かうと今津に通じます。織田信長は、進路を右にとり朽木を目指しますが、ここが織田信長の運命を左右する分岐的であったと考えられます。

  • 住所 滋賀県高島市今津町保坂
  • 電話番号

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約10分

市場の街並み

  • 市場の街並み
  • 所要時間約50分

    朽木の旧街道沿いにある円満堂跡は、朽木元綱が朽木越えで撤退する織田信長を接待した場所で、織田信長は当地で休息します。その際、接待役であった長谷川惣兵衛茂元が、信長から鹿革製のたちつけ(袴)と銀製の箸を賜ったことが『長谷川家先祖書』に記されています。

  • 住所 滋賀県高島市朽木市場
  • 電話番号 0740-33-7101(びわ湖高島観光協会)

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約3分

道の駅くつき新本陣

  • 道の駅くつき新本陣
  • 所要時間約50分

    領主・朽木氏の陣屋を現代風に復元し、朽木の数々の産品が揃う道の駅。名物の鯖寿司などを旅のおともにどうぞ。日曜日は朝市開催。

  • 住所 滋賀県高島市朽木市場
  • 電話番号 0740-38-2398

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約60分

京都東IC・帰路へ